John MacBook の感想文集

人生の感想文

五等分の花嫁を通して思い出す、AKB48と僕との思い出について

コロナウィルスにより、あまりにも暇なのでブログを再会する。おそらくすぐに飽きて、また更新をしなくなるだろう。ブログを見にきてくれた方には大変申し訳ないが、よろしければ最後まで読んでください。

 

最近、僕は「五等分の花嫁」というアニメにハマった。上記のアニメを知らない方に少し説明をしよう。「五等分の花嫁」とは週刊少年マガジンで2020年12号まで連載されていた全14巻の漫画であり、1人の男子高校生が五つ子の女子高生の家庭教師を務めるというラブコメディで、五つ子のうちの1人との結婚を控えた主人公が高校時代を回想する形で描かれている。

 

GW中に暇を持て余した僕はNetflixで全話読み終わった後、全巻を電子書籍で購入し、1日で読破した。

ちなみに僕は三女推しです。

 

その後、オチを知った上でもう一度全巻読み直し、考察ブログを読み、アニメをもう一度見直し、再度1巻から読み直した。

漫画に関しては3度読んだにも関わらず、3回とも泣いた。

 

さて、本題に入ろう。

僕には現在彼女がいるのだが、五等分の花嫁にハマっているというのが少し言いづらい。

理由は明白。

本漫画はいわゆるハーレムものであり、五つ子の美少女が出てくる。深夜の時間帯にやっているアニメということもあり、なんとなく彼女に言いづらい気持ちも分かっていただけないだろうか。

 

(2020年にこんなこと言うことがおかしい事も分かっています)

 

深夜アニメに対して偏見もないし、私も数多視聴しますが、それを彼女に伝えることが少し躊躇する気持ちをわかって欲しい。

 

これに関しては、私の苦い思い出にある。

中学時代、僕は塾に通っており、同じ塾に通う1人の女の子のことが好きだった。

琴子さん(仮名)とでも呼ぼう。

僕は一度だけ琴子さんとデートをする機会を得た。中学生の僕は何をすれば良いかわからず、地元近くの少し栄えた街を2人で歩き、一緒に本屋を巡るという、今考えれば老夫婦の1日のようなデートを過ごしたことを昨日の事のように覚えている。当日は少し暑い夏の日で、三島由紀夫金閣寺を一緒に探した。

本当はすごくつまらなかっただろうに、ずっと楽しそうにしてくれた琴子さんには申し訳なさが募る。本当にごめんなさい。そしてありがとうございました。

デートの最中、琴子さんは私に「どんな音楽を聴いているの?」と話しかけた。

当時、音楽プレイヤーといえばiPod nanoが全盛期であり、私もiPod nanoを使用していた。琴子さんが覗いた私のipodにはAKB48が表示されていた。

 

2014年当時、AKB48前田敦子氏を中心に絶大な人気を誇っており、私が柏木由紀推しとして楽曲を聴いていた。

柏木由紀推しに関しては、高校時代に公言をしたところクラスメイトに「いかにも童貞が好きそうだよな」と笑われたことをきっかけに推しを卒業した。

この話はいつか書こう。

 

話を戻そう。

琴子さんが私のAKB48が表示されたipodを見て言ったのだ。

 

「私AKB48聴く男性苦手なんだよね」

 

 

僕はこの日を境に、AKB48の楽曲を全てipodから削除し、一切聴くことをやめた。

AKB48に関してはPSPで発売された1/48もプレイし、ライブ映像もyoutubeで観るなど、今考えると物凄いファンだったが、それを1日で絶つことを決めた所に僕がどれだけ琴子さんのことが好きだったかが分かる。

 

この経験から、いわゆる世間の女性が良いイメージを持たない

 

アイドルグループが好きな男

美少女アニメが好きな男

 

にはならないように生きてきた。

特に意識はしていなかったが、五等分の花嫁を好きになってから思い出した。

僕は嫌われるようなものを無意識の内に避けて生きてきたのだ。

 

先日、王様のブランチにて「五等分の花嫁」が紹介されたと知り、彼女に「これ俺も読んだな、面白かったよ(笑)」とだけ話すことが出来たが、それまでだ。

 

 

きっとこの気持ちを素直に伝えられたら

そして彼女が何の偏見もなく受け止めてくれる人だったら

それが僕が彼女と結婚を決意する日なのだと薄々感じる。

 

過去の呪縛から解放される日も近いかもしれない。

 

 

最後に琴子さん(仮名)に関して、今となっては良い思い出です。当時の僕はあなたに好かれようと必死だったと今でも思い出します。

私が塾を辞めて以来、一切あなたのことは知りませんが、今でも私の中の大切な思い出の一部です。

ありがとうございました。

 

 

感傷的になっているので、今日はこの辺で。

 

新元号をめちゃくちゃ楽しみにしてるやつなんているのか

あと1ヶ月で今年度も終え、新元号が発表される。

巷では、就活解禁とともに大きな話題にも上がっている新元号だが、あんなの誰が楽しみにしてるんだと思う

 

正直まじでどうでもいいし、西暦の方がポピュラーじゃないのか?

小さな島国でしか使えない漢字二文字をそこまで重要視してるやつなんかいるのか

 

何になろうが、「あーそうなんだ」で終わりだろう

やれ○○だ。やれ××だ。などと盛り上がっていて奇妙な気分になる。

 

俺がおかしいのか。それとも世界が変わったのか。

どっちなんだろうか。その答えは新元号しか知らない。

指導者としてすべきこと

指導者には何が必要なのか。

難しい問題だと思う。特に日本で盛んな部活に関しては、指導者の問題がたびたび上がる。

 

暴力であったり、アメフトであったり様々だ。

 

どんな指導が正しいのかは誰にも分からない。

ただ、答えがAの問題をBと間違えてる生徒に対して、「それはBだよ。答えはAだよ」というのは指導者としてあるべき姿ではないと思う。

 

最近はそういう人が増えた。

特に悪い習慣は「見て覚えろ」「自分で考えろ」

この二つだと思う。

 

過去に誰かがした失敗を繰り返して何になるのか。わかってる失敗をなぜさせるのか。

 

「それは〇〇が間違えてるからいけないんだよ。こうすると答えはAになるよ」

 

と言えば済む問題なのに、それだと

 

「自主性が育たない」というのは何故なのか。

 

 

高校生なら3年間、大学生なら4年間しかない部活動。受験や就職活動を入れたら実働2年もしくは3年しかない中で活躍するためには効率的に練習をする他に何が必要なのだろうか。

 

間違えてる生徒には理由を説明し、一緒に考える。

自分が学んだ知識、経験を使用し、教えてあげることができれば解決すべき問題ではないのか。

 

指導者のあるべき姿はそういうものではないのかと僕は思う。

 

自分がそうしてきたから。それで自分はできたから。なんて言葉は成功者しか言わない。そういう奴ほど声が大きい。

 

出来ない人にフォーカスをすべきだ。

 

出来ない人を全て活躍させることが指導者の役目なんじゃないかと思う。

「カメラを止めるな!」の口コミから感じる狂気

映画「カメラを止めるな!」が話題だ。

ネットを中心にその勢いはどんどん加速して行き、今ではどこもかしこもソールドアウトが相次いでいる。

 

この映画の不可解な点は見た人ほとんどが大絶賛しているからである。特に多いのは

 

「最初の30分はつまらなかったが、そこからの伏線回収がすごい。」「ネタバレを見ずに見てほしい映画」「低予算なのにこの面白さはすごい」

 

 

みんながみんな大絶賛である。

 

おかしい。何かがおかしい。

 

 

インターネットの世界なんて批判がほとんどである。どんな映画も批判される。あのララランドや美女と野獣でさえ陳腐な映画だと批評している人もいた。

 

なのにだ。「カメラを止めるな!」に関してはそれがない。全員が全員大絶賛をしている。僕はこの現象に気持ち悪さすら覚える。ものすごく「ブラックボックス展」に似ているからだ。

 

ブラックボックス展」とは、なかのひとよ氏が開催した展覧会のことであり、ただただ黒い箱の中に入れられるという展示会だった。これもとうじものすごく話題になった。

 

なにも無い箱に入れられるだけなのに、その後、SNSで大絶賛するよう紙が配られ、騙された人が騙す側に回るというサイクルである。

詳しくは各々で調べてほしい。

 

 

この現象と同じ気持ち悪さを感じた。

もしかしたら「カメラを止めるな!」では何も流れなくて絶賛しろと言われるだけなのではないかと。

 

 

実際はそうではない。

ネタバレは避けるが、純粋に面白い映画だとのこと。

 

ただ、ここまで高評価が多すぎる映画は見たことはないし、逆に不安になる。つまらないと言えない雰囲気を口コミが作ってしまっているのではないか。

 

大衆の価値観がマイノリティーを食ってしまったかのように感じる。非常に怖い。

 

 

また、誰もネタバレをしたがらない。これもまた気味が悪い。名探偵コナンなんかは見なくても誰が犯人かわかるほどに毎年ネタバレが呟かれる。

なのにも関わらず「カメラを止めるな!」は誰もがネタバレをしないのである。

 

なぜなのか。さっぱりわからない。

 

見た人がこれから見る人に同じ体験をしてほしいという文言をよく見るが、なぜそうなるのか分からない。

 

ものすごい体験が出来るのか。

 

僕は見たことがないので分からない。

 

 

ただ僕が言いたいことはこの映画の口コミは絶賛が多すぎて気持ちが悪い上に狂気すら感じる。

同じことを言うが大衆の価値観がマイノリティーを喰ったという印象を覚える。

きっと生活の場面でそれは当たり前に起こることなのだろうが、それが映画で起こると言うことを目の当たりにして違和感を覚えているのだろう。

 

 

最後に「低予算なのにすごい」と褒める映画フリークに伝えたい。

 

「低予算なのに」は褒め言葉ではない。

僕らは予算に関わらず同じ値段をかけて映画を見る。映画は予算ではなく面白さで語るべきだ。

 

このクチコミから考えても、視聴者はどうにかして褒めようとしているように感じてしまう。

 

この感想は「カメラを止めるな!」を見ていない僕の主観的な感想であって、映画を否定するものでもないし、クチコミを否定するものでもない。機会があれば「カメラを止めるな!」を見てみようとすら思っている。不快な気分になった方がいたら申し訳ない。この場をお借りしてお詫びする。

 

 

もしこの映画を見た方がいたらコメントでも何でもいいから教えてほしい。

なぜこのように世間の話題を掻っ攫ったのか。純粋な感想を教えてほしい。

 

きっとそこにこの映画がヒットした理由があるのだろう。

 

 

 

平成最後の夏

平成最後の夏

 

この言葉が大嫌いだ。

なぜ最後だからといって気合を入れなくちゃいけないのか。

最後だから遊びに行こうとか最後だから花火しようとか。それはきっと最後じゃなくてもできるよ。

最後という言葉を言い訳にやりたいことをやってるだけだよ。

 

きっとそれはいつでも出来る。

なのにみんな「平成最後の夏だから」と口癖のように言う。

 

平成最後の夏くらい、いつもと同じ夏でいいじゃないか。無理なんかしなくていい。

クーラーの入った部屋でずっとゴロゴロしたり、アイス食べたり。ヒルナンデス見たり、甲子園見たり、最後だからこそ特別なことをしなくていいじゃないか。

 

きっとなにげない日常が一番特別なんだから。

最後の夏らしくいつも通り過ごす。みんながそうすればいいのに。

 

平成最後の夏だからと言って、みんなが浮き足立つ。そんなことしなくていい。

 

学生最後の夏とか、そういう言葉も嫌い。

きっと今頑張ってできることはこれからも出来る。無理してすることはないよ。

 

今会える友達に会ったり、部屋でゴロゴロしたり、たまには家族で一緒に映画を見たり、そんないつも通りの夏でいいんじゃない?

 

どんな最後の日もいつも通りにダラダラしたい。

僕はそれが正解な気がする。

「てかラインやってる?」

「てかラインやってる?」

 

 

ネット上ではナンパを煽る時に使うような言葉になっているけど、実際にナンパをするとこの言葉の有り難みがすごく分かる。それにこの言葉のハードルはまじで高い。

 

これはW杯で日本が盛り上がっている時の話だ。

友人と一緒にHUBで女の子と一緒にW杯を見ようという話になり、我々男3人は勇ましくHUBに向かったのである。

 

そして最初に見つけたのが大学生っぽい女の子二人組み。

これはいくしかない。僕らは目で合図をし、二人で話しかけた。

既に一人関西弁の男が彼女らに「一緒にサッカーを見よう」と話しかけていた。

負けじと僕らも加わる。

「どこから来たの?」「今日は二人なの?」「大学生?」まじで質問攻めだった。

相手の子は会話をしたがらない。関西弁は見切ってどっかに消えた。

女の子二人組は社会人で北海道出身、今は東京に住んでいるということしかわからなかった。

 

僕の相方の男は何も喋らずニコニコしてた。(もう一人の男は座ってサッカー見てる)

結局「トイレに行くね」と言われ、雑踏の中に消えていった。その後僕らがあの女の子と話すことはなかった。LINEを聞くこともできなかった。

 

まじでくそ

 

結局トイレ行ってないし

10分後になんか別の男といい感じになってるし

 

まじでクソ

 

まあブスに興味ないし、と切り替えて周りを見渡す。めちゃくちゃどエロい格好をした女がいた。最高だ。どエロい女と美人なのに汚い女を嫌いな男はいない。

 

「一緒に飲みませんか?」

 

と言おうとした矢先、スーツの男にとられた。

 

 

まじでくそ

本当にクソ

 

 

結局この日、初めてのナンパは失敗に終わった。

まじで何もできなかった。

正直ナンパなんてみたいに思っていたところもあるが、やってみるとまじで緊張するし出来ない。

ナンパなんてするもんじゃない。

 

「てかラインやってる?」

嫌い

僕は自分のことを他人に話したくない。

それが恋人でもだ。

あまり自分のことを話すことが好きじゃない。苦手だ。

 

物事は全て客観的に見る。

基本的に相手に合わせる。

自分が嫌なことはしない。

 

これらのことを気にするだけで簡単に良い人になれる。

 

昔よく親に言われた言葉がある。

「他人を動かさない。自分が動きなさい。」

いい言葉だと今でも思う。

 

他人に◯◯しなさいと言うのではなく、それは自分でやってしまう。

そうする方が簡単なのである。

 

僕は怒られるのが嫌なので、他人には怒らない。

何かミスがあったらどうすれば解決するか一緒に考える。

機嫌が悪い人が嫌いだ。だから常に機嫌がいいように振る舞う。

笑わない人が嫌いだ。だから常に笑う。

愚痴を言う人が嫌いだ。だから愚痴は言わない。

人を叩かない。罵らない。

 

何をするにも自分が嫌いなことはしない。

 

僕はそうやって生きてきた。

 

 

なのに、最近では

無理してる

優しすぎて怖い

何を考えてるかわからない

 

などと言われる。

 

終いには、もっと愚痴を言ってほしいと言われる始末である。

もっとわがままになるべきだと。

 

僕はそう言う人が嫌いだ。

自分のわがままさを棚に上げて他人に強要する。

だけど、人に嫌いという人が嫌いだから僕は嫌いとは言わない。

「そうなんだね」と相槌をうつ。

 

要領の悪い人が嫌い。

うるさい人が嫌い。

すぐに愚痴を言う人が嫌い。

泣く人も嫌い。

雨も嫌い。

ネガティブな人も嫌い

自分に酔ってる人も

頑張ってるアピールする人も

すぐに弱音を吐く人も

全部全部嫌い。

 

 

だけどそれは言わない。

それを聞いた人が嫌な思いをするから。

僕は人の愚痴を聞くのが嫌い。

だから言わない。

 

何も話したくないし、知られたくない。

優しくはないし、なにもかも嫌い。